はまぎんこども宇宙科学館 プラネタリウム 一般番組

『未知の惑星を求めて』

 

投影期間:2004年9月8日〜2005年4月4日(予定)

冥王星を発見したトンボー
Credit: New Mexico State University Library
Archives and Special Collections
Clyde Tombaugh Papers


海王星・冥王星情報もごらんください



★★ 投影の前半は、プラネタリウム生解説による『今夜の星空』です ★★
★★ 1996年に投影された内容に新しい情報を加え改訂したものです★★


1781年、ハーシェルによって発見された天王星。 天文学者たちは、その奇妙な動きに戸惑いました。 天王星の謎解きに挑戦したアダムズとルベリエは 海王星を発見します。 しかし、それでも天王星の動きには解明できない 部分が残りました。 さらに未知の惑星があるに違いないと、計算と捜索が 始まりました。そして1930年、ついにトンボーが 冥王星を発見します。 これで天王星の動きの謎は解明されたのでしょうか.... ベトナムでの戦火をのがれ、アメリカにわたった少女は、 天文学者となり、1992年、同僚とともに、海王星 以遠の未知の天体を発見します。 これは、太陽系のかなたに、未知の惑星を求め発見して いった人々の物語です。









1781年、手作りの望遠鏡で天体観測をしていたハーシェルは、ふたご座に見慣
れぬ星を見つけました。 天王星の発見でした。


そして、19世紀に入ると、天王星について、頭をひねりたくなるような事実が明
らかになったのです。


イギリス、ケンブリッジ大学天文台長のエアリーは、天王星が、計算で求められた位
置からわずかにずれていることに気がつき、この事を発表しました。

1832年のことです。



ケンブリッジ大学に入学したアダムズは、家計を助けるため、家庭教師をしながら
勉強に励みました。


1841年6月26日。書店に入ったアダムズは、偶然エアリーの書いた論文を見
つけました。

天王星の奇妙な動きを発表した、あの論文です。


この論文に強く心を動かされたアダムズは、大学を卒業後、直ちにこの問題に取り
組む決心を固めました。


未知の惑星の軌道を求めるという、これまでに誰もやったことがない課題への挑戦
です。


1845年9月中旬、ついに計算結果が出ました。

アダムズはケンブリッジ天文台のチャリスに結果を送りましたが、チャリスの返事
はこうでした。


<チャリス>

 「君の優秀さは良く解った。計算結果は、グリニッジ天文台長、エアリー先 
生に見てもらいなさい。先生は私の先輩でもある」


ところが、当時グリニッジ天文台の台長になっていたエアリーはアダムズをまるで
相手にしませんでした。


<エアリーの妻>

 「あなた、アダムズさんがいらしてますよ」

<エアリー>

 「食事の最中だ。引き取ってもらいなさい・・・。

  紙と鉛筆だけで惑星を発見する話など、今は聞きたくない!」



アダムズのせっかくの研究もチャリスやエアリーの無関心によって発見のチャンス
が消えてしまいました。





ルベリエは、アダムズと同じく、そう裕福な家庭に生まれたわけではありません。

彼の父親は、優秀な成績を上げていた息子のため、家まで手放して高等教育を受け
させました。

ルベリエもそうした父に応え、パリ工科大学をトップクラスで卒業しました。


その後、友人のおかげで、工科大学天文教授の職に就くことが決まると、26歳の
ルベリエは、猛烈に天文学を勉強し、得意な数学を天文学に応用していったのです。


1845年夏、パリ天文台台長、アラゴーは、ルベリエに対し天王星問題を解い
てみないか、と持ちかけました。




その夏が終わろうとしていた頃、イギリスのアダムズは既に計算結果を出していた
のです。




翌年の6月1日、ルベリエは天王星の動きが乱れるのは、未知の惑星が重力で引っ
張っているからであるとして、その惑星が何処に見えるかを示した論文を、パリの科
学アカデミーに提出しました。


アカデミーはこの計算を讃えましたが本当に惑星が発見できると考えた者はほとん
どいませんでした。


8月31日、ルベリエはさらに計算を改良し、何とか捜索をして欲しいと、あちこ
ちに当たってみました。


ルベリエの手紙が、ベルリン天文台に着いたのは9月23日の事でした。


その夜、助手のガレ、そして天文台に来ていた学生のダレストは、歴史的な観測を行う
ことになります。


ベルリン天文台の誇る口径23センチの屈折望遠鏡が、ルベリエの示した方向に向
けられました。


幸いなことに、ベルリン天文台には、ヨーロッパの他の天文台には置かれていない
新しく正確な星図、星の位置を書いた図があったのです。


ガレは望遠鏡の視野の星の位置と明るさを言い、ダレストがそれと星図を比較し
ていきます。



<ダレスト>

 「星図にあります」


 「それもあります」


<ガレ>

 「赤経21時53分25秒、

 54、光度は8等」


<ダレスト>

 「それは・・・それはありません。星図にありません!」



捜索を始めてからまだ30分とたたないうち、わずか数個の星を調べただけで未知
の惑星は見つかりました。

ルベリエの示した位置から1度もずれていなかったのです。


ガレはルベリエに返事を出しました。その中でガレは、新惑星に「ヤヌス」と
いう名前を提案しています。


内心ルベリエは、ガレが新惑星の名前を提案してきたことについては、あまり愉
快ではありませんでした。


彼はガレへの手紙に、フランス経度局は、この惑星に「ネプチューン」、海王星
という名を与えた、というあと書きをつけました。もちろんそんな事実はなかったのです。



「海王星」の名は、国際的にも広まっていきました。




10月3日、ジョン・ハーシェルの書いた記事が、ロンドンの雑誌に載りました。


ハーシェルはその中で、ルベリエに対する祝いの言葉を述べた後、若きアダムズが、
ルベリエと同じ様な計算を出していた事実に触れていました。


エアリーは、自分に不利でない状況を整えようと必死でした。




10月19日、パリ科学アカデミーが召集され、フランスの名誉に関わる海王星発
見問題が討議されました。


<アラゴー>

 「みなさん落ち着いて下さい。エアリーは御存知のように天体力学の権威です。
 もし彼がアダムズの研究を知っていたなら、新惑星の存在を疑うはずがありません。

 アダムズは研究を発表していなかったのですから、新惑星発見についてなんら 
権利が無いのです」


フランスの新聞もイギリスに対し攻撃的な論調でした。




11月13日、イギリスでは王立天文学会が開かれ、海王星問題についての討論が
行われました。

ここでアダムズは自分のやってきたことを説明したのです。


<アダムズ>

「フランスのルベリエ氏は、私と同様な計算を行い、ドイツの天文台と共同で 
  新惑星の発見に成功しました。未知の領域に光を当てるその勇気と行動力に、 同じ
  科学者として深く敬意を表します。

 ルベリエ氏の研究が先に発表され、しかもそれが実際の発見を導いたのです。

 ルベリエ氏にこそ、新惑星発見の名誉が与えられるべきだと私は考えます」





チャリスとエアリーは厳しく非難されたのは言うまでもありません。




つい最近、海王星発見に関する秘密の文書が大量に見つかりました。
20世紀も終わりに近い頃になり、偶然見つかったこのファイルは、ロンドン大学の
ニック・コラストロムによって調査されました。

海王星発見後に公表されたのは、アダムズの出した計算結果のうち、最も発見位置に
近いものだったのです。
イギリス側に都合の悪い文書は、誰の目にも触れないよう、長い間秘密にされたのでした。




イギリス、フランス両国の名誉争いも次第に収まり、アダムズの一貫して紳士的な
態度が評価され、イギリスの王立学士院からルベリエとアダムズ二人にメダルが贈ら
れています。


1847年6月、イギリス科学振興協会のパーティーで、アダムズとルベリエは初
めて顔を合わせました。二人はすぐに打ち融け、楽しそうに語り合い、生涯の友人と
なったのです。




1980年、 カナダ、トロント大学のドレイクと、 アメリカ、カリフォルニア
工科大学のコワルは、ガリレオ・ガリレイのノートを調べ、ガリレオが偶然、海王星
を記録していたことを発見しました。


この古い観測記録は、海王星の運動を研究する上で、貴重な資料となっています。

海王星発見の234年前、すなわち1612年12月のことでした。

今出ているのが1月28日の記録です。




一方、海王星までの全惑星の重力を計算に入れても、天王星の位置にはなお数パー
セントの食い違いが残りました。


天王星の観測データと理論の食い違いから、さらに新惑星の存在を示せないかと計算に取
り組んだ天文学者がいました。




ローウェルは、裕福な家庭に生まれました。

ハーバード大学で数学を専門に学んだ後、六年間、実業家として働きお金を蓄えます。


以前から火星に強い興味を抱いていたローウェルは、自分の財産をつぎ込んで、私設の
天文台をアリゾナに建てます。

有能な天文学者を雇い、自由に研究させたのです。

ローウェルの興味は火星以外にもありました。

海王星より遠い未知の惑星に対する関心は、大学時代に生まれていたものです。




地球から見て、太陽は星座を背景に、一年に一周しているように見えます。

この見かけの「太陽の通り道」を黄道と呼んでいます。

ご覧のように、惑星も黄道の近くに見えます。


他の惑星と同じく、新惑星も黄道の近くであろうと推測されました。


当時はすでに写真観測の時代でした。

黄道に沿っての写真による捜索が開始されたのです。

1905年のことです。



写真撮影は、2年半かかり終了しました。

ローウェルは写真乾板、440枚をつぶさに調べていきましたが何も発見できませ
んでした。



以前、火星観測の手助けをしてくれた、ハーバード大学のピッカリングも新惑星の
捜索を独自に開始していました。

短期間でしたが、二度の捜索で失敗したピッカリングは、ローウェルに助けを求め
ました。


ローウェルは大変なライバルが現れた事にショックでした。

しかも計算は相手の方が上手です。


ローウェルは自分が同じ事をしているのにそれを隠しておきました。




なぜ発見できないかが検討され、写真乾板を能率的に比較できるよう「ブリンク・
コンパレーター」という、当時では最新式の装置が導入されます。

ブリンク・コンパレーターの原理は、時間を置いて撮影した2枚の写真を、それぞ
れすばやく点滅させながら比較する、というものです。


星座の星は二枚とも同じ位置に写っているため、あまり点滅して見えませんが、移
動する天体は点滅して見えるのです。


こうして、1911年3月13日。

ローウェル56歳の誕生日に捜索が開始されました。


何年もかかった計算と捜索。惑星は見つかりません。

次第に気落ちしていくローウェルでした。




1916年7月2日の観測日誌には「食事」とだけ記されています。

空の条件が悪かったのでしょう。この夜が捜索最後の日でした。




一千枚近い写真が撮られ、そこには515個の小惑星、700個の変光星、そして
なんと新惑星が2度も写っていたのです。


それは見過ごされていました。

予想よりも暗い、かすかなものであったせいかもしれません。

かろうじて写真乾板に写っていたのです。



その年の11月12日、61歳のローウェルは天文台の仕事に疲れ果て、この世に
別れを告げたのです。



天文台の職員は、新惑星の捜索を続けたいと考えていましたが、第一次世界大戦や
遺言をめぐるローウェル夫人との裁判などで、観測ははかどりません。

そうした問題が一段落した頃、ローウェル天文台長スライファーは、一通の手紙を
受け取ります。




クライド・トンボーは、1906年、イリノイ州の農家に生まれました。

夏は家族と共に畑仕事で忙しかったのですが、夜や冬には趣味として天文学を楽し
んでいました。


その正確な観測記録が、手紙を添えてスライファーの元に送られて来たのです。

スライファーは、正規の天文教育を受けていないこの青年を、ためしに雇ってみる
ことにします。

スライファーは、この青年に新惑星探しをさせようと考えていたのです。


22歳のトンボーは、1929年1月15日、フラッグスタッフに到着しました。

彼の熱心さは、職員をたいへん感心させ、4月6日、トンボーによる新惑星の捜索
が開始されます。


捜索は、ローウェルの計算した位置の東の部分から始められました。


一枚の写真乾板には5万個もの星が写るのです。


そして、ふたご座。天の川に近い所です。

写る星は一挙に40万個になりました。

これをブリンク・コンパレーターで調べていくのは大変な作業です。


捜索に入って5日目。

1929年4月11日、トンボーは10枚目の写真撮影を行っていました。

実はそこに求めていた天体、新惑星が写っていたのです。

ブリンク・コンパレーターの仕事は、初め別の職員が担当していたのですが、見落
してしまったのです。



夏になると、スライファーは、コンパレーターの仕事もトンボーにまかせることに
しました。


9月上旬、トンボーはローウェルの計算にとらわれず、黄道全域について調べるこ
とにします。


2月18日、午後4時、トンボーは1月23日と29日の乾板をコンパレーターに
かけていたところ、位置が変わっている天体に気づきました。


明るさは15等、予想より暗い天体でした。


トンボーは、スライファーにこの事を告げました。



<スライファー>

 「でかしたぞトンボー君!

  ただ万一のことを考え、十分確認観測が出来てから発表しよう。

  それまでは秘密にしておこう」


トンボーは家族にもこの事は黙っていました。



ローウェルが予報した位置とは6度もずれていました。

むしろトンボーのねばり強い捜索の結果といっていいでしょう。




1930年3月13日、今は無きローウェルの75回目の誕生日であり、ハーシェ
ルが天王星を発見して149年目に当たるその日、新惑星発見の知らせが世界へ発信
されたのです。


このニュースは世界の新聞の一面を飾りました。


新惑星の名前について、ローウェル天文台には手紙が山のように送られてきました。


その中から、スライファーは「プルート、冥王星」という名を選び、発表しました。


名付け親はイギリスの11歳の少女でした。

学校でギリシャ・ローマ神話を習っていた彼女は、この暗いかすかな惑星には、死
者の国の神の名がふさわしいと考えたのです。




1978年6月、アメリカ海軍天文台のクリスティは、4月から5月に撮影された
冥王星の写真乾板を調べていた時、たまたま冥王星の衛星を発見しました。


衛星が見つかりますと、その運動から、冥王星の重さも計算できます。

その結果、冥王星の重さは地球の0.2%くらいしかないことが判明しました。

その重力はわずかなもので、とても天王星のふらつきを説明できません。


はたして、天王星のふらつきの原因となる別の惑星が存在するのでしょうか。



実は、冥王星発見直後からトンボーは、第10番目の惑星探しをスタートさせてい
ました。

1943年7月、フラッグスタッフから観測できる空の写真撮影と、延べ70
00時間に及ぶブリンク・コンパレーターによる調査を終了させました。


第10番惑星は見つかりませんでした。


トンボーは16等星より明るい天体は捕らえていましたから、もっと暗いのかも知
れません。

あるいは、捜索からはずれた領域にあったのかも知れません。



1990年代に入り、最新のデータを使って、天王星の軌道を計算し直した結果、
もはや、「天王星のふらつき」は見られなくなりました。


太陽系には9つの惑星しかないと多くの天文学者が思い始めた頃、不思議な天体が
発見されました。




ジェーン・ルーは1963年、ベトナム戦争さなかのサイゴン、今のホーチミン市
に生まれました。


1975年4月、解放軍がサイゴンに進攻したとき、小学生の彼女とその家族は着
の身着のままで国外に脱出、アメリカの南カリフォルニアにたどり着きます。


英語を勉強し、高校生となった彼女は、科学が得意でした。

やがて、奨学金を得て、スタンフォード大学で物理学を学ぶようになります。


夏休みに、惑星探査機で有名なジェット推進研究所でアルバイトをすることになり
ました。


この事がきっかけで、ジェーン・ルーは、天文学、とりわけ太陽系天文学にとりつ
かれてしまいます。


ルーとマサチューセッツ工科大学のジューイットは、海王星の向こうに
小さな天体ならあるかも知れないと考え、1987年にハワイ、マウナケア山頂にある
口径2.2メートルの望遠鏡で捜索を始めました。


初めは写真乾板を使っていましたが、途中から光を電気信号に変える装置を採用し
ました。

これならコンピューターへつないで調べるのも楽です。

しかし、何も見つからず5年間が過ぎました。



そして、1992年8月30日の夜のことです。

23等という微かな未知の天体がゆっくりと動いていたのです。

「1992QB1]と名付けられたこの天体は海王星よりも遠い所を回っているこ
とが判明しました。


その後、彼女やほかのグループの捜索により、これまでに約800個の同様な天体が見
つかっています。


冥王星以下の大きさと見られるこれらの天体の正体は一体なんでしょうか。


こうした天体を予想していた学者の名を取り、「カイパーベルト天体」と呼ばれ
ています。


現在、アメリカでは、まだ探査機が一度も接近したことのない冥王星とカイパーベルト
天体に向けて、探査機を飛ばす計画が進められています。


「ニューホライズンズ」、新たなる地平線 と名づけられた探査機は、2006年1月に
打ち上げられる予定です。



2007年2月には木星のそばを通過。

2015年7月には冥王星の近くに到着します。

さらに探査機は、カイバーベルト天体にも接近するでしょう。




冥王星発見者のクライド・トンボーは、1997年1月17日、ニューメキシコ州
ラス・クルーセスの自宅で亡くなりました。91歳の誕生日をむかえる直前でした。 


若きトンボーが発見した遠い惑星の表面を、探査機の目を通して見る、そんな日がまも
なくやってきます。


新たな驚き、そして、さらなる謎が私たちを待っていることでしょう。



= おわり =




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