The Stars of Ancient Near East
古代オリエントの星

[天文民俗学ページ]

[エジプト・中近東の星の民話]

 

これは、日本プラネタリウム協会の会誌「Twilight」誌に 1993年7月〜1994年3月まで連載させていただいたものです...が 内容が古く、間違いが多いので1999年4月に改定しました。 Special Thanks To:かりんのアクセサリーアイテム,for the web materials.

●日本の星座史の一般的な知識
●カルデア人とは?
●カルデアのなごり−−天文学と数学
●カルデアのなごり−−魔術と占い
●最近わかってきたメソポタミア文明
●メソポタミア文明の誕生
●バビロンの新年祭--Akitu Festival
●創世記エヌマ・エリシュ--Enuma Elish
●古代バビロニア以後、カルデア王国まで
●カルデア王国
●メソポタミアの神々とそのシンボル
●金星とイシュタル
●自分で調べてみよう!
●参考文献

★古代の星座名の変換年表

 

 

日本の星座史の一般的な知識

 今はインターネット時代である.古代オリエント史の研究は世界中の大学が 手を組み、大きな進歩をとげている.しかし日本の星座話はあいかわらず 戦前と同じである.なぜプラネタリウムではこのような古い、はっきり 言えば大間違いの情報を離しているのか?という質問が古代オリエント 関係者や海外の天文関係者からくるようになった.
 今、「B.C.3000ごろカルデア人という羊飼いが星座を作った」という話は、欧米の専門書は もちろん、 一般むけの優しい天文書からもほぼ無くなっている.変わって星座はシュメール、 あるいはアッカドで作られたと考えられる、とする話が掲載されている.古代オリエント学者 100人にきけば100人ともそう答えるのだから、あたりまえだ.ついでに、 シュメールもアッカドも麦栽培を中心とした、どちらかといえば農耕中心 民族であるのも有名な話である.羊飼いではない.今はさらに 詳しくどの星座が何年ごろの記述に登場し、どのように名前が変化して いったか、実際の星空のどの領域がそのオリエント星座であったか、まで わかっている.

また、メソポタミアの著名な星座文献もめったに日本の星座本で 話にでてこない.アキートゥクロニクル、B.C.1100前後の天文関連資料をあつめた「アストロラーベ」などはもちろん、 最も有名なメソポタミアの天文 文書集「ムル・アピン」ですら、日本ではまずめったに星座の誕生の話で 言及されない.英訳はもちろん、
古天文の部屋では邦語訳があるのでぜひご覧いただきたい.

 占星術書に正確さを望むのは無理であろうが、せめて天文の普及書では この欧米ではもうどの本にものっていない、戦前の間違った知識ではなく、最新の古代オリエントの科学史情報を 掲載してほしいのである.ここでしている話は私の個人的見解などではない. ごくごく一般的な古代オリエント科学史の話である.これを読まれた方、 もし星座の本を執筆されることがあったら、どうかご協力をお願いします.

カルデア人とは?


 星座は、だれがいつ作ったのであろうか。これははっきりとはわかって いないが、研究が進むに従い色々なことがわかるようになった。
 星占いの本などには、星座は今から5千年くらい前、 カルデア人という羊飼いたちが作った、と書かれていることが多い。 これは明らかな誤りである。

Q:カルデア人とは?
A:紀元前1100年ごろ、メソポタミアにやってきた、アラム系遊牧民。

 百科辞典、歴史の参考書をみると、上記のような答えである。これは「そういった解釈もある」などという解釈の話ではなく、定義の問題で、歴史の世界ではあたりまえのことなのだ。

 紀元前2000年あたり、シュメール・アッカド人のあとにメソポタミアに登場する、星座をつくったと言われる遊牧民はたしかにいるが、アモリ人(アムル人)と呼ばれる民族だ。アモリ人は、古代バビロニア王国を作った民族で、シュメール・アッカドの高度な文明を受け継いだ。

 なぜプラネタリウム界をあげて、
カルデア人がシュメールのあとあたりに登場するという勘違いをしていたのかというと、野尻抱影先生が、一様に著作でアモリ人をカルデア人と書いていることから生じたものと思われる。なぜそう書かれたのか、....昔はアモリ人をカルデア人といったのだろうか?....は不明である。

 紀元前3000年ごろのシュメール人やアッカド人が星座を作ったのでは?という表現もあるが、そうなるとシュメール・アッカドはどちらかというと農耕民族なので、星座は「羊かいが作った」のではなく「農民が作った」ことになるのかもしれない。 しかし、シュメール・アッカドの伝承で空の星を「天の羊」と表現しており, この表現からすると羊かいが作ったでいいような気がする。

 カルデア人が星座を作った説は,今や専門書ではあまり見かけないが, 専門書よりずっと売れている星占い本や入門書にいっぱいのっているので、 修正するのは難しそうなかんじである。このような勘違いはどの分野も 多くあるので、あまり気にしなくてもよいのかもしれない

 欧米では「カルデア」というと国名である。日本で言う「新バビロニア王国」(B.C.62_i1338)は、ヨーロッパではカルデア王国と呼ばれている。欧米のメソポタミア関係の本の邦訳は、原著がカルデアとしているところを、日本語版ではバビロニアと書いているものが多かった。

 ヨーロッパの言伝え、ことわざ、占いなどに「カルデア」の名はよく登場するので、ぜひ慣用にしてほしいものだと思う。(バビロニアという名も同じくらいよく使われる)
 最近は日本でも、カルデア王国という呼び名が少しづつ普及してきて,新しい本は新バビロニアではなく,カルデアと書いてあるものも多い。

 カルデアの名が、19−20世紀のバビロン・マリ・ウルなどのセンセーショナルな発掘以前からヨーロッパで知られていたのは、ひとえに聖書の普及による。
 旧約聖書に登場する、伝説の楽園バビロンとは、カルデア王国のバビロンのことである。バベルの塔や空中庭園を作ったのも、バビロン補囚を行なったのも、カルデア王国で、繁栄におごり、天罰をうけた国−−悪役として有名であったのである。

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カルデアのなごり−−天文学と数学

  ヨーロッパでは、かつて、一部の自然科学が「カルデア人の科学」と呼ばれた。「天文学はカルデアの賜」という昔のことわざもある。
  1年12カ月、1週間7日、1日24時間、角度の1周360度といった単位は、みなカルデア産(もとをたどると古代バビロニアあたり)である。
 もっと印象的なカルデアのなごりは、夜空を彩る星座であろうが、こちらはすっかりギリシャナイズされているので、ぴんとこない。実は惑星の名前も、カルデアから伝わったものが、ギリシャの神々に置き換えられただけであることがわかっている。

 欧米では、「ギリシャの天文学(と数学の一部?)は、オリジナルではなく、多くの部分がカルデアから伝わったものである」という話を、知らない人が多いそうである。ヨーロッパ人にとっての中東は、オスマントルコの侵略などから、アジアの恐い国という長年の印象が強いので無理もないだろう。近年はイラク問題などでいっそう拍車がかかったような感じである。

 しかし、メソポタミアの科学の場合、「こう解釈できる」などという、あいまいなものではない。
 粘土板文書は、砂漠で何100年たっても風化しないし(ただ塩害でひどい)、言語は優秀な表音文字・楔型文字でしるされている。枚数は数10万枚で、毎年のように新しい文書も解読されている。数学好きな民族のため、惑星の会合周期、日食予報など、きっちりと数字で表示される。証拠は非常に明快なのである。

 19世紀半ばに楔形文字が解読され(客星さんのHPより)、オリエントの文書が読まれていくと、どうも初期のギリシャ天文学は、細かい数字にうとく、数学を駆使したカルデア天文学を、継承できていない感じさえ出てきた。数字の部分が注釈なしの丸写しなのである。
 初期ギリシャで、宇宙論以外でカルデアの数理天文学を凌駕したのは、歳差を発見したヒッパルコス (B.C.190-?)ただ1人であろうというのが、最近の一般的な解釈であるようだ。


 数学は、シュメール以来のメソポタミアの伝統だ。2次方程式やピタゴラスの定理は紀元前1700年の古代バビロニア王国ですでに使われており、カルデア王国ともなると、平方根・立方根の計算方法も一部の文化人は知っていたらしい。しかし計算がたいへんなので、一度計算したら、平方根表や立方根表にして残していた。

 また、シュメール人は化学の知識もあり、紀元前3900年の金属の抽出器(土器)が発見されている。ウルの町ではアルカリが大量生産されていたそうで、紀元前2000年の文書には、香水の抽出法なともある。
 何よりシュメール人の大好物はビールであった。もちろん主農産物の大麦、小麦を発酵させて作ったものだ。ビール博士RINくん(米山和利氏)の話によると、シュメールのビールは甘くて強く、大麦の他にエンメル麦、スペルト麦などから作られ、16種類もあったそうだ。
 カルデアの科学は、ギリシャを通じて伝わ り、現在のヨーロッパ文明の基礎に流れているのである。

カルデアのなごり−−魔術と占い


 「むかし、むかし、そのむかし、
  バビロニアがまだ若かったころ.」

 これはイタリア民俗学ネタの宝庫・トスカーナ地方のジプシー占いで、今も使われている呪文の一部である。
 ジプシー占いだけでなく、ヨーロッパの魔術研究の書物(欧米ではけっこう本屋に並んでいる)をあけると、「
カルデア時代からの」といった表現がいたるところに出て来る。

  ヨーロッパにおける「占い」というものの発端は、カルデア王国である。黄道12宮占星術(現行の12宮占星術のシステムはもっと後代の成立)が成立したのはカルデア時代の直後で、カルデア王国ではホロスコープは作っていないが、突発天体現象ををみて、国家の状態を占った。カルデア時代の占星術は、個人ではなく、主に国家の状態を占うものだった。

 バビロニア、カルデアの名といっしょに、占いや魔術の文献には、よくアッシリアの名がみえる。しかし、アッシリアは、文化的にはバビロニア−カルデアの系列とは異なる、独自のものを作っている。星辰崇拝も、それほどは行なっていない。
 アッシリアは図書館を作ったり美しいレリーフを製作したり、王侯貴族は文化を大切にしていたようである。古代バビロニアの占いなどの文献は、多くはアッシリアのアッシュールバニパル王の書庫から出ている。アッシリアは戦争が多く、神神には 戦争の勝利ばかりを祈っていた記録が残っている。
 不安定な時代を象徴してか、最近国内でも人気の魔術文書では「アッシリア・バビロニアから....」「アッシリア・カルデアの時代...」という表現が多数出てくる。

 星辰を崇拝したカルデアでは、月は神々の住処で、星は神々を表わしていたが、中世ヨーロッパでは、なぜか月は悪魔の住処になり、星は悪魔や魔物と関係が深くなった。ギリシャのさっそうとした月の女神アルテミスが、中世では魔女の親分的存在の魔物になってしまうし、資料は燃えるし、ヨーロッパではこの中世フィルターがかかってあらゆる伝承が伝わってしまっているのである。

 カルデア王国の首都バビロンは、旧約聖書で知られている。栄華を誇ったが、神のいる天まで登ろうとしてバベルの塔を築き、神の怒りにふれたという有名な下りがある。これは、カルデア王ネブカドネザル2世がイスラエルを占領し、税金の不払いに対しバビロン補囚を行なったという事実から、悪役とされたと言われている。(補囚といっても当時「バビロンに入る者は、犬でも自由を得る」という諺があり、またネブカドネザルは、よく捕虜の領主らといっしょに食事をしたという記録などから、捕虜は相当に寛大な扱いをうけたと考えられている。)
 キリスト教世界にとっては悪しき町であるバビロンで、星が祭られていたということも、天体と悪魔が結びついていく原因の1つではないだろうか。

 カルデア独特の星辰崇拝は、悪魔と天体を結びつける中世ヨーロッパの民間信仰と重なり、魔術的なものとして、ヨーロッパの市民の生活の中に残っていったようである。
 ルネサンス前後に捏造された様々なヨーロッパ魔術本には、惑星や星座と対応する多くの悪魔たちの表がのっている。(だれが決めたんでしょうねえ,この対応)

 シビアな数学と、幻想的な魔術。あいいれそうにないものを、そろえてヨーロッパに伝えたのが、古代メソポタミア文明なのである。

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最近わかってきたメソポタミア文明


 メソポタミア文明の様子がわかるようになったは、19世紀後半〜今世紀に入ってからである。B.C.2500以前成立の人類最古の物語ギルガメシュの舞台ウルク、神殿都市ニプルなど、メソポタミアを代表する都市達の名も、100年前までは、だれも知らなかったのである。
 ライバル?古代エジプト文明などは、子供でも知っているのに対し、古代メソポタミア文明は気の毒なあつかいなのである。しかし、西洋文明の中への影響力は、エジプトより、メソポタミアの方がはるかに大きい。

 19世紀後半のバビロンの発掘から、20世紀前半のウル、キシュ、マリ、ニネヴェなどのメソポタミア諸都市の発掘は、ニュースとしてはエジプトのツタンカーメン、シュリーマンのトロイアほど大きく扱われなかったが、その各分野への影響は非常に大きいものであった。

 天文畑の話では、19世紀半ばの楔形文字解読からヨーロッパの研究者の地道な作業により、メソポタミアの数学、天文学がヨーロッパに紹介されていった。今世紀初めには、フランスのテュロー・ダンジャンも、シュメール−バビロニアの天文学や数学の文書を数多く訳し、メソポタミアの科学の詳細な様子を伝えた。
 しかし、当時のヨーロッパ人は(バビロニア信奉者が大げさだったこともあり)どうも信用しなかったようである。

 1922年ごろ始まった、シュメールきっての大都市ウルの発掘が、メソポタミア文明への認識を大きくぬりかえた。紀元前2500年の都市から、アスファルトで舗装された日干しレンガづくりの、整然とした広い市街や、ラピスラズリや金銀で飾られた見事な美術品が、大量の粘土板と共に出てきたのである。

 20世紀半ば、ノイゲバウアーの登場により、ヨーロッパ科学史の専門家は、本当に頭を入れ替えさせられた。
  ノイゲバウアーは、バビロニア信奉者とちがい、冷静な人物であった。粘土に記されている事実だけを事実としてあげ、数字により定量的に表わされているもの以外は自然科学としては認めなかった。(ノイゲバウアーは、天文現象について、定量的数値を出していない、
カルデア以前のメソポタミア天文学は自然科学としては評価していない。)
 そういう彼の著書は、説得力があったらしい。一般向けの著書「古代の精密科学」をよむとだいたいのカルデア天文学論がわかる(ただその、1950年代の邦訳が直訳で非常に よみずらいので、できれば改定してほしいのであった)。 淡々と数学の計算や惑星表などを解説した論文が並ぶにつれ、少なくとも科学史を専攻する学者はメソポタミアの自然科学に注目し、理解した。
 ノイゲバウアーの前と後で、ヨーロッパ科学史の本の最初の部分はがらりと 変わっている。現在はヨーロッパ版の科学史、天文学史の本は、古代メソポタミアの天文学は筆頭で紹介されている。

 しかし、一般市民と天文学者には、まだ古代メソポタミアの天文学はよく 知られていないようだ。あいかわらず、ヨーロッパやアメリカで、科学スライドの会社やプラネタリウムが売りだしている「天文学の歴史」スライドセットには、メソポタミアのメ....の字くらいしかない。
 古代エジプトや、マヤ・アステカ文明、ストーンヘンジ、インディアンの遺跡などは、はいっているのであるが、、、、シリウス暦、デカンという恒星時時計を かねていた独自の星座などがあるエジプトはともかく、その他は?ものである。
 他に欧米の科学史にのってないものでは、中国のいんの国(B.C.1400-1027)の太陰太陽暦などがある。

 

【メソポタミア地方の簡単な歴史】

 B.C.3500
 |
 B.C.2350

シュメール時代

 B.C.2350
 |
 B.C.2180

アッカド時代

 B.C.2180-B.C.2070

グチウム族が支配

 B.C.2060-B.C.1950

ウル第3王朝(シュメール)

 B.C.1960-B.C.1700

イシン,ラルサ王朝

 B.C.1830
 |
 B.C.1530

バビロン第一王朝(アモリ人)

 

 B.C.1530
 |
 B.C.1150

バビロニア・カッシート朝

 B.C.1450
 |
 B.C.933

アッシリア

 B.C.987
 |
 B.C.745

バビロニア・エラム人王朝

 B.C.933
 |
 B.C.745

アッシリア帝国

 

 B.C.745-B.C.625

アッシリア帝国

 B.C.645-B.C.550

カルデア(新バビロニア)時代

 B.C.550
 |
 B.C.400

ペルシャ時代

 B.C.400
 |
 A.D.200

シリア,パルティアなど


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メソポタミア文明の誕生


 メソポタミア最古の町エリドゥが、小さな集落として誕生したのが、紀元前4500年ごろと言われる。この町のもととなったのは、メソポタミア原住民族のハラフ人の集落であるが、エリドゥを町と呼べるものにしたのは、B.C.3500ごろ、どこからかやってきた、農耕民族シュメール人である。

 エリドゥ、ウルク、ウル、ニプル、ラルサ、ラガシュ、イシン、ウンマなど、シュメールの都市国家が栄えたのは紀元前3100-2500年ごろである。
 ウルの町は、紀元前2500年ごろは、人口10-20万人。町の周囲は城壁がめぐり、道は舗装され、率で決められた税制、裁判所、学校、 神殿、巨大な潅漑施設、貿易のための良港を もち、作物のとれ高の管理もきちんと行なわれていた。ビールや薬も作られた。市民たちの裁判の結果なども今聞いても納得のいくもので、とにかく政治が近代的、古代の町という気がしない。

 シュメール文化の白眉は代数と幾何の数学であろう。B.C.2200-1400ごろのキシュから発掘された数学文書では、X,Yの2元連立方程式(メソポタミアの代数は記号を使わず、表を使う),またX2を使った2次方程式(それもかなり込み入ったもの)の計算表などがみつかり、ピタゴラスの定理も建築などに応用されていた。2次方程式にはかなり悪戦苦闘した様子も残っている。とにかく、紀元前2000年以前である。「シュメール人宇宙人説」が出るのもなんとなくうなづける。


 古代オリエントの国家というと、ギリシャのポリスの市民?自治に対し、よくペルシャ風専制君主国家という見方がされるが、元々は都市国家文明である。ギリシャより長い伝統もある。ただし、ギリシャと比べると、ものすごい戦争好きで、都市間は争いが耐えなかったそうだ。

 メソポタミアというところは、はっきり言って土以外何もない。岩すらない。美術品の細工に使われている宝石や金属は、シリアやアフガニスタン、また地中海などから輸入されたものなのである。紀元前2500年の大交易ルートは、遠くヒマラヤ山脈のふもとまで広がっていたことが、現在証明されている。

 海と陸両方のルートを使って、日本列島の何倍もの長さの距離を、拠点で受け継ぎ受け継ぎ商品を移動させた、B.C.2500の中東商人たちは、いったいぜんたいどういうことをやっていたのか興味があるが、この話をしているとまた1章使ってしまうのでパス。

 ウルのような古代の砂漠の町は、滅びたり焼かれたあとに砂がつもり、その上に新しく町がつくられる。それをくりかえすので,全体としては,町の遺跡は丘のようになる。そういった丘を「遺丘(テル)」と呼んでいる。
 遺丘の数は、イラク〜シリアあたりで1万とも2万とも言われる。発掘されているのは、まだ100-200だそうなので、古代メソポタミア 文明の研究ネタは、無尽蔵と言われるのもよくわかる。粘土版なども、大英博物館所蔵のウルのものだけでも、8割が未解読である。
 メソポタミア文明は、まだまだ調査中の域にあるのである。従って古代オリエント学(欧米でアッシリア学という)は若い学問である。本番はまだきっと何10年も先だ。

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「バビロンの新年祭」---Akitu Festival


 本格的な天文学が登場するのは、シュメール・アッカド人よりあと、遊牧民族アモリ人の古代バビロニア王国あたりからである。

 シュメール人は、ジッグラートで天体観測を行なったと考えられてはいるが、農耕民族で暦もおおざっぱである。シュメール人は土着の神々を、天にのぼらせたと言われている。星座もおそらくシュメール人によりほとんどの原形が作られたであろう。

実はシュメール人による星座の記述の証拠(星座文献)は、膨大な粘土板の海を捜しまわっても、今のところ皆無に近い。
 それでも、シュメール人が星座を作ったと考えられている理由の1つは、メソポタミアにおける
星座名がほぼ全部シュメール語である、という点である。紀元前2300年ごろには、メソポタミア一帯の原語はアッカド語に統一されている。それでも紀元前1世紀という新しい時代まで、星座の名前はシュメール語が使われているのである。(この部分はNIFTY・FSPACEの星の民話の部屋で客星さん、Suhaaさんらのご研究から引用させていただいております。)
また、シュメール人の高度な数学的知識や天体への関心も理由の1つとなっているようである。
 今後シュメールの天文文献が出てきたら、天文民族学と科学史の狭い世界で大ニュースになることだろう。

 紀元前1700年前後、ハンムラビ王の時代に全盛期をむかえた、古代バビロニア王国は、後のカルデア王国と共に、恒星と星座を祭った歴史上でも珍しい国家であった。カルデア王国は、バビロンという都市で受け継がれていた天文学を継承したようなものであるから、「星好き国家」の元は、古代バビロニア王国の方かもしれない。

 古代バビロニアでは、1年を360日とする理想年が使われていたが、8年でうるう月を3回入れる古代バビロン暦が天文学の成果の1つであろう。
 バビロンの新年は、おひつじ座アルファ星(ディルガン)のヘリアックの出(太陽といっしょに昇ること)の前後の、新月の日である。よって元旦は毎年3月23日±10日くらいのいつかで、毎年違う。1年も354日の年と384日の年が色々とある。最初はうるう月の入れ方も不規則で、何がなんだかわからなくなったため、ハンムラビ王の時代に8年3閏法を採用したらしい。

 そして、天文学というわけではないが、一部の星座が作られたようだ。
 今までに日本で紹介された中で、最も古い方に属する星座の記述が、バビロンの新年祭で、司祭が読む祈りの文中に登場する。

 バビロンでは、新年から7日ほど(カルデア時代には12日にのびる)新年祭が営まれ、司祭が国の繁栄を太陽、月、惑星、そして恒星に祈る。いわゆるアキートゥ・フェスティバル、「お祭の起源」などにでてくる祭である。この祈りの文は半分くらいが、恒星と星座に対する祈りである。この新年祭の祈りの文が、筑摩書房「筑摩世界文学大系1古代オリエント集」p.197-206「バビロンの新年祭」に全文が掲載されている。

 登場する星座名は、ペガスス座(イクー星)りゅう座(ムシュケシュダ星)、おおいぬ座(バン星)、サソリ座(ギルタブ)、こと座(ウズ星)などである。記述言語はシュメール・アッカド語であり、邦訳はトゥロー・ダンジャン訳をもととし、エベリンク、サクスらの訳を参考に後藤光一郎氏が行なっている。
 星座名は、後代にアッカド語から他の言語に移り変わりながら、何度も楔形文字文書に登場するもので、同定は疑わしいものではないだろう。

 1978年の筑摩世界文学大系1「古代オリエント集」の刊行により、一般市民にも古代オリエント文書の門が開かれた。この本は杉勇、五味亨(敬称略)ら9名の先生方が共同執筆されたもので、レファレンスの出典、訳の経緯も、詳細に記されたされた1つの集大成とも言えるものである。今でも古代オリエント文献関係では、この本から引用がなされることが多い。
 この本は、原典そのままなので、こういう調査にはたいへんありがたい代物であるが、ただちょっといいお値段であるので、解説書風の矢島文夫「オリエント選書・占星術の誕生」(東京新聞出版局)が推薦品である。最近ならインターネットで検索すると、 英語とドイツ語でいろいろでてくる。

 「バビロンの新年祭」は「古代オリエント集」にのっている多数の文献の1つで、星座名と、それがどの星からどの星までを表わすのかの細かい同定については、欧米の学者でも細かい差があるようだが、とにかく星座であることには変わりはない。
 これに登場する古代の星座は、今まで天文関係の書籍ではほとんど紹介されていないが、その理由は不明である。もしかすると、単に私達がこの文書の存在を知らなかっただけ....という気もする。

 新年祭の祈りの文は、司祭以外には明かされなかった秘伝とされ、正体は不明である。
 成立年代であるが、「古代オリエント集」には少なくとも紀元前1000年代末にはあったらしいということしかかいてない。学者はホント慎重だ。(慎重すぎてロマンがたりない,などというとノイゲバウアーさんになぐられる....かもしれない)
 バビロンの新年祭という行事についての最古の記述が、ウル第3王朝のB.C.2020の文献に登場することから、B.C.2000ごろに成立しているという可能性もあるわけだ。

 「バビロンの新年祭」はシュメール語・アッカド語混在で書かれており、シュメール語はバビロン第1王朝(B.C.1700)ごろには、ほぼ滅びていることから、起源は相当古いことが予想される。
 バビロンの町は少なくともアッカド時代からあったが(バビロンという町の名はアッカド語)、その前にシュメール人が作ったという説が今強い。そうなると、新年祭の起源はもっともっと古くなり、最古の星座の記述も古くなる可能性もある。

創世記「エヌマ・エリシュ」---Enuma Elish


 新年祭で同様に朗読される文書は他に、有名な天地創造物語「エヌマ・エリシュEnuma Elish」というのがある。(新年祭と同じ本に邦訳が出ている)こちらは、成立はバビロン第1王朝(B.C.1700)前後、はっきりとシュメールから継承されたものと言われている。

 「....彼は偉大な神々のために、落ち着き場所を設けた。
  (注:「彼」とはマルドゥークのこと)
  彼らの似姿であるそれぞれの星、12宮の星座を置き、
  1年を定め、基礎的わりふりをしてから、
  12の月にそれぞれ3つの(旬日の)星座を配置した。
  彼は1年の日々に区切りをつけた後、
  だれも秩序を乱すようなことをしたり、
  ずぼらにならないよう、
  ネビルの場所(注:赤道と黄道の交点)をもうけ、
  それらとの関係を決めた....」

       後藤光一郎訳
       「エヌマ・エリシュ」より、
       筑摩世界文学大系1

 上記の「12の星座」の部分は、「衣装」とも解釈できるそうだ。以前は衣装だったが、後藤氏の訳は12の星座を採用している。
 天文を少し知る者がみても、上記の12の星座の部分は獣帯と解釈すると、文脈上ピッタリである。近年はこの「12の星座」説が強いが、そういう解釈もできるという範囲を出てはいない。シュメール語、アッカド語で星座というのは別に単語があり カッカブという。

 黄道12宮の成立は紀元前7−5世紀メソポタミアというのは 、西洋史、東洋史ともほぼ定説である。ここでもし12の星座が登場するとすると、黄道12宮ではなく、単なる12の星座ということであろう。

 ノイゲバウアーによれば、紀元前409年のホロスコープが史上最古の黄道12宮史料である。紀元前7世紀のアッシュール・バニパル王の書庫に、ゾディアックを含む36星座が出ている粘土板が あるそうだが、特定はされていない。(著名なムルアピン星表のことだとしたら、既に解読されており、大英博物館の粘土板史料で間違いなく現存する。)これも12宮ではなく、星座としてのZodiacであろう。
 
カルデア王国(B.C.62_i1338)は、黄道12宮を使ったホロスコープ占星術を行なっていない。単発天文現象による占いだけである。

 エヌマ・エリシュ中に出てくる、星座と同定できそうな単語としては「弓星」(バン星)がある。メソポタミアでは、おおいぬ座(とアルゴ座の一部)が弓星の名で呼ばれており、これはまちがいないと言われている。
 よく話題になる「天の牡牛」という記述もあるが、これがおうし座かというと、同定できる証拠はない。

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古代バビロニア以後、カルデア王国まで


 以上のようなアッカド−バビロン第一王朝時代の諸文献のあとは、B.C.8世紀ごろのアッシュール・バニパル王の図書館の蔵書まで、日本語の資料として手元にはみつからない。
 野尻抱影先生の著書「星座」(恒星社厚生閣)「星と東西民族」に、多数の中期バビロニア(B.C.16-11ごろ、カッシート時代中心)の星名、
星座名が、ワイドナーら海外の論文からの出典で紹介されており、ひらすらそれにたよるしかない。

 野尻先生の本では、中期バビロニアだけでなく、アッシリア、カルデア時代と、民族とともに移り変わる呼び名について、詳細に記述されている。1つや2つの文献ではなく、多数の論文から導かれた結果のようである。何分原典の資料が不明あるいは入手困難なため、私にはこれ以上の記述はできないが、NIFTY/FSPACEの客星氏(ハンドル名。ペンネームのようなもの)ならたぶん御存知であろう。原典はドイツ語が多く(ドイツは東洋の民俗学に強い)、こちらは訳す気力もない。

 古代バビロニア=バビロン第1王朝は、ハンムラビ宝典で有名な名君ハンムラビ王が亡くなると衰退し、カッシート族にのっとられてしまった。このカッシートの時代は400年も続いたのだが、芸術と科学の成果は、なぜかまったくと言っていいほど残っていないそうだ。
 なので、紀元前1530-1150のカッシート時代は別名暗黒時代ともいわれる。暗黒時代の唯一の芸術品が、境界石(クッドルー)と呼ばれる石碑で、楔形文字と絵が書かれている。

 クッドルーは、王が領主に授けた土地所有についての誓約書のようなもので、忠誠などをバビロニアの神々にかけて誓われている。
 クッドルーの絵は、各神々のシンボルで、それらは粘土板や円筒印章などにもよく登場するマークや動物の姿である、

 以前は当時の宇宙観、つまり天の星座が描かれているという説もあったが、星座のようにみえる動物たちの絵のわきに、それに相当する神々の名前が記されているものがみつかってしまった。この証拠は動かしがたく、クッドルーの絵は星座ではなく、神々の姿(シンボルマーク)である、ということに現在落ちついているようだ。シンボルの同定は図のとおりである。

 ただし、クッドルーの絵でも、神様の絵であるし星座でもあるといえるものがある。
  よく「やぎ座の原型」として引き合いに出される「魚ヤギ」の図は、水と知恵の神エアなのであるが、やぎ座自体がエア神である、とされているので、あれだけはそのまま星座のもとの図と思ってさしつかえない。ヤギ座のバビロニア名はスフル・マシュ、意味はずばり「魚ヤギ」である。(シュメール語ではウズ星というらしい。)

  クッドルーにはよく「いて座の原型」とされる「サソリ人間」の図がある。これは当記事の初稿では、さそり人間=いて座となっている戦争の神パピルサグである、と書いてしまったのだが、実は間違いである。大英博物館のブラック、グリーン共著の「古代メソポタミアシンボル辞典」によると、さそり人間とパピルサグはまったくの別物となっている。
 野尻抱影氏の著作でも、サソリ人間はギルタブルル、パピルサグはパピルサグ、とはっきり別に記述されている。

 アッカド語で「パ・ビル・サグ」という怪物は、ケンタウロスの体にサソリの尾がついている、ニヌルタ神という戦いの神である。いて座のバビロニア名はパピルサグで、そのものずばりである。よってクッドルーのさそり人間はいて座というわけではないようだ。

 他にみずがめ座であるが、バビロニア名は「グラ」。水がほとばしる水がめをもつ水の女神の名前である。クッドルーに、なぜかよく1柱だけ人間の姿として描かれる女神グラは、みずがめ座がグラそのものなので、星座といえないこともなさそうだ。

 カッシートのあとは、エラム人など様々な 民族がバビロニアを支配するが、あまり天文 学はさかんではなかったようだ。
 他の地域では、上メソポタミアでアッシリアが強国になるが、アッシリアはシュメール−バビロニア系列とはまったく違う文化をつくった。オリエントを統一した、有名な残虐な民族である。戦っておとした町は住民は皆殺し、王の首や沢山の首無し死体を前に、王妃や王女が勝利の美酒に酔っているレリーフは有名だ。アッシリア軍はオリエント史上最強と学者も太鼓判をおしており、連戦連勝の負け知らずの記録はもう恐いったらない。

 しかしこの血を好む民族は、芸術と文化も好んだらしい。アッシリアのレリーフは、生き生きとして見事なもので、メソポタミア美術の白眉と言われる。

 「アッシリアの獅子」として有名な対の有翼雄牛(実際ライオンではない)の門は、大英博物館だけで10組近くあるが、これが少しづつ変容しながら東に伝わり、日本の神社の「こま犬」となった..と言われている。日本の神社に近い中国、 の建物(なんとか廟というのだが)には門を守るコマイヌ相当の像が立っている。イランの寺院にも門に似たようなライオン像がよくある。

 またオーラ(光)をまとった有翼円盤で表わされるアッシリアの主神アッシュールは、エジプトとメソポタミアの多くの民族で共通の主神のシンボルマークである。 もとは古都アッシュールの神であったとされるが、エジプトの真似をした 可能性もありそうである。その有翼円盤はのちのアケメネス朝ペルシャで光の神アフラマツダとして取り入れられ、アフラマツダはインドでは阿修羅の王で「光の仏」ヴィローシャナとなり、ヴィローシャナは真言密教の中心仏・大日如来であり、そして日本の奈良の大仏(びるしゃな仏)となる。はるかなりシルクロードだ。

 またアッシュール・バニパル王(B.C.669-626)は、文書を重視し、オリエント最大の図書館(粘土板館かな)を作った。おかげで大量のバビロニア文書もニネヴェに保存されて現在陽の目をみている。
 このアッシュール・バニパル王の図書館には、色々な星座の呼び名・役割などが書かれた貴重な資料も含まれている。また一説によれば、現行の配置の黄道12星座と、その記号が書かれた資料があるといううわさがある。(ノイゲバウアーらは、ホロスコープ占星術が生まれた紀元前400-500年より前に、黄道12星座が存在する意味はないと、この説に反対である。)
 また、ホロスコープ占星術以前の、天変による占星術の文書も多数みつかっている。

 紀元前1100年ごろ、ようやく遊牧民族カルデア人がメソポタミアに登場する。どこからかやってきたアラム人の一派カルデア人は、徐々に勢力をのばし、B.C.700ごろにはバビロン市をアッシリアと交互に支配いていたらしい。
カルデア人達はアッシリアの支配が気に入らなかったようで、約400年という長い年月をアッシリアとの抗争に費やしている。国もない遊牧民が、この空前の大帝国に正面きって抵抗していたのだからすごい話で、なぜわざわざ戦争ばかりする?と日本人 にはなかなか心情が理解できない。
 アッシリアvsカルデアというのは世界史の宿命のライバルとも言える組合せであった。

カルデア王国


どんなに栄えた国もやはりいつかは衰退するわけで、紀元前615年、バビロン・メディアの連合軍は、首都ニネヴェを陥落させ、同612年アッシリア帝国は滅亡した。 苦節400年、カルデア人達はとうとう宿敵アッシリアを滅ぼし、上下メソポタミアを併合するオリエント最強国を作り上げた。しかしその栄華は歴史の流れの中で 非常に短いものであった。
 カルデア王国(新バビロニア王国)はB.C.625年バビロンでの建国から、その後B.C.538年まで続く。

 バビロンは、異民族に支配されていたときも、メソポタミア人の心のよりどころとして、一目置かれており、ある程度独立を保っていた。アッシリアなどは、他の町は、征服すると民間人を皆殺しか流刑にしていたのに、バビロンは王を任命するだけで手つかずでほうっておいた。バビロンは非常に特殊な都市であった。
 カルデア王国となって、バビロンはやりたい放題ができるようになり、町のカラーを発揮して、星祭りや占い、天文学をさかんに行なうようになったようだ。


 天文計算や天体観測を行なったのは、一部の神官のような人々だったらしい。しかし3人や4人ではなくたくさんいたようで、「
カルデア人」と呼ばれる、天文学に詳しい人物は、カルデア滅亡のあとも紀元前2世紀ごろまで、ギリシャやローマに出没するのである。ギリシャでいうカルデア人というのは、メソポタミアからやってきた人で、天文の知識がある者のことである。
 神官達の天文学の知識は、一部のカルデア人たちにかなり長い期間、継承されていたのであろう。

 カルデアの天文学は、粘土板の他に、ローマ時代のプトレマイオスの「アルマゲスト」に記録が残っている。月の1日の平均移動距離など,現在の値と1”の狂いもなく算出しており、5大惑星の会合周期も、半日以下のずれで計算されている。
 当時は望遠鏡も写真もなかったのだから、肉眼観測だけでこれをやったわけで,少なくとも数十年以上の長期の継続観測データからの算出以外に考えられない。(このことからますますジッグラート=天文台説が強まっている。)

 天体観測は、半球の中央に玉をつるした半球儀と水時計を使って行なわれたらしい。
 太陽の近時差、月の満ち欠け周期のわずかな変動も知っており、その増減のリズムを予報するためには、サインカーブを直線におきかえたような、ジグザグ関数(ノイゲバウアーの表現)を使っていた。

 カルデア人は、日食のサロス周期(240交点月)を使ったとされるが、これは実は勘違いらしく、カルデア王国では日食の予報は行なっておらず、次のセレウコス朝シリアで初めて日食予報が行なわれている。その際も、サロス周期は使われず、太陽と月の黄経黄緯を少しづつ計算して行なわれている。
 (天文計算をやったことがあれば,サロスを使ってのある定点の日食予報は、サロスの3倍の周期を使ったとしても微妙に場所がずれてしまい、事実上不可能であることはわかるだろう。)
 このサロス周期でメソポタミア人が日食計算をした、という間違った噂は世界中に広まってしまっており、うるさ屋ノイゲバウアーですら「この説は違う違うといっているが、もうどうしようもない」と訂正をあきらめている。日本の天文学事典各種にものっており、私も訂正をあきらめている。

 黄道と白道の交点に日月がくると日食が起こる場合がある、ということは古代バビロニア時代に既に知られていたという。しかしこの話は裏がとれていないので、 ちょっと怪しい。

 計算はシュメール以来60進法と分数を使って行なっている。1つ1つ天文現象を計算するのではなく、日食表や惑星の位置表などのように、数表を作っておき、その表(推算表という)をみて計算を行なったらしい。平方根表・立方根表などもあった。詳しく調査しているO.ノイゲバウアーの話では、カルデア以前と以後では,天文については計算精度がまるで違うそうだ。

 この時代のバビロン暦は、やはり太陰暦であったが、より正確になり、19年7閏法を使ったらしい。年初は春分の日近くの新月の日で、この年初はローマ帝国の暦 に影響を与えたとされているが、ギリシャ暦は全然違うし、詳しくは調べてみないとわからない。

 バビロンのジッグラートが、いわゆるバベルの塔である。エテメンアンキと呼ばれてお り、ネブカドネザル王が、もとからあった小さいものを作りなおした。高さ90m、幅90mの塔で、7層の各階は7つの惑星を表わす色でぬりわけられ、最上階には青い焼きレンガで装飾された、町の神マルドゥークの神殿が立っていたという。(1Fから順に黒(土星)、赤茶(木星)、バラ色(火星)、金色(太陽)、白(金星)、濃紺(水星)、銀色(月)であったそうだ)
 7というのはマルドゥークの聖数であり、シュメール時代からのメソポタミアの聖数でもある。
 青は、シュメール美術のラピスラズリからの継承であろうか?。神聖なものの装飾に使われた。来訪者を圧倒したと言われる高さ12mの巨大なイシュタル門も,青の彩色レンガでおおわれている。

 バベルの塔は、エテメンアンキが本当の名称で、となりに立っている神殿エ・サギラに属している。エ・サギラ神殿は、ウル第3王朝の文書に、紀元前2000年ごろ、つまりバビロンができたかできないあたりから記述が登場する。他の文書にはバビロンの町の王は「エ・サギラを営む者」と記述されている。メソポタミアでは第1級の力をもった神殿であった。このエ・サギラ神殿は、ペガスス座を型どったものとされている。(新年祭の祈りの文にペガスス座の地上の似姿という記述がある)
 エサギラ、エテメンアンキともに、バビロン市の中央を流れるユーフラテス河に面している。エサギラとエテメンアンキの間にあり、新市街のアダド通りにつながる橋は、123メートルもあり、大型の船が通るときは一部を開閉したという。

 カルデア王国は、栄華をきわめたバビロンを中心に栄えたが、その期間はわずか50年程度である。他のメソポタミアの王朝、300年以上続いたアッシリアやカッシートに比べると、あまりに短い。
 このあっという間に消えた王国が、ヨーロッパでは、メソポタミアを代表する名前として今まで伝わっている。なんという影響力であろうか。

 カルデア時代が、ヨーロッパの原点ギリシャ文明隆盛の直前で、時代的に近かったこと、また旧約聖書に登場することをさしひいても、カルデア王国の文化は、他に国に比べて異質で印象が強かったのであろう。
 高度な数学を駆使した自然科学、謎めいた占い、地上の楽園バビロン。伝説の国になるには,なかなかの要素ではないか。

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メソポタミアの神々とそのシンボル


 天文学の起源はともかくとして、星座の起源の話になると、古代メソポタミアの神々について知っていないとなんのことかわからなくなると思うので、紹介してみる。
 神の名称はアッカド語で記し、カッコ内がシュメール語のもの。

 メソポタミア天地創造物語は、混沌から淡水と海水が生まれ,その子供や孫が天と地..といったわりとよくある話である。

 太古の神々は、淡水神アプスー、海水女神ティアマト、その子ラハムとラハム(ほとんど記録ナシ)、アンシャル(上方の基本要素)とキシャル(下方の基本要素)。アンシャルとキシャルから神々の王で天空神のアヌが誕生する。

 アヌの系統から多くの古株の神々が誕生し、パンテオンを作っていくが、そのうち太古神アプスーが子供達を皆殺しにしようとして、逆にエアに殺される。夫を殺され怒ったティアマトが11匹の怪物を作り(この11匹+エア神で黄道12星座という説があるそうだ。かなり無理があるようだが..)反乱を起こす。皆がティアマトを恐れてしりごみする中、エアの息子マルドゥークが1人で退治に向い、怪物とティアマトを退治する。
 そしてマルドゥークが主神として認められ,世界の秩序を作る。マルドゥークはティアマトの体をちぎって天地を創造し、黄道、赤道を決め、ついでに「12の星座」(最近の訳。昔は衣と訳されていた。)も作ったという。

 メソポタミアの古典的12神というのが、太古の神の次にくる神々で、オリンポス12神みたいなものである。ただ,ギリシャの神々があちこちの異民族の土地の神を集めてきたのに対し、いちおう自前であげている。
 神々の王アヌ(ヌディンムド)、大気の神エンリル(ベール?、アヌの息子)、エンリルの妻で仲介の女神ニンリル(後に他の女神(ニンフルサグ?)吸収され消えてしまう)、水と知恵の神エア(エンキ、エンリルの息子)、太陽神シャマシュ(ウトゥ)、月神シン(ナンナ)、愛と戦いの女神イシュタル(イナンナ、シンの娘)、嵐の神アダド(イシュクル?)、狩猟の神ニヌルタ、その妻で医療の女神ニンカラナ、冥界の王ネルガル(ムスタバル?)、その妻で冥界の女神エレシュギガル、出産の女神ニンマである。

 これらのアッカドの神々の中で、雷神アダトは、カナーンにいって主神バール・ハダドとなる。バールの名称も,もとシュメールの主神であったエンリルの称号ベール(主という意味。後マルドゥークの称号となる。)からきたものと思われる。イシュタルは大活躍なので後述する。ティアマトはマルドゥークと共にギリシャに輸出されて、もう1戦やっている。

 ちょっと脱線するが、アンドロメダ伝説のことだ。ペルセウス座がメソポタミアではマルドゥークと呼ばれていたのは有名な話である。
 マルドゥークことペルセウスが、メデューサを退治した帰りにペガサスにのってエチオピアの海岸をとおる(どういうコースなんでしょ)と、アンドロメダが岩にくくりつけられていた。目前の大海ヘビ(元々海ヘビであってクジラではない)ティアマトが彼女におそいかかりそうだったので、ペルセウスはメデューサの頭を見せてティアマトを石にしてしまった。という話である。
 マルドゥーク対ティアマト(ここでは海神ポセイドンの部下。ちなみにポセイドンは土着の神時代は、土地の知恵の女神メデューサの夫である。)は、かなり規模が小さくなったがエヌマエリシュでの対決と同じである。エヌマエリシュでは、マルドゥークは風と3つ又の鉾を使って、海ヘビであるティアマトを倒している。
 このペルセウスというギリシャの英雄は実は謎ばかりで何もわかっていない。ペルセウスの子ペルセスは、なんとペルシャ王国の創建者と神話ではなっているのだ。なんでまたギリシャ人のはずのペルセウスの子が東洋人になるのだろう?
 一部の神秘主義者はペルセウスは実は東洋の太陽神ミトラがギリシャ神話にとりこまれた姿だといっている。ミトラの名前をだせないのでペルシャからきた英雄という意味のペルセウスをつけたというのだ。なんだか納得できてしまう話である。
 この説がでる理由の1つはアンドロメダ神話の起源がギリシャとは考えにくいのに、ギリシャ作になっているということもある。

 なんでエチオピヤ王家の話をギリシャで創作しなくてはならないのだろう?ギリシャ神話はありったけの各地の土着の神話をとりいれている。アンドロメダ伝説もアフリカからとりいれた、と考えるのが普通であるが、とりいれ元がわからず、従ってギリシャの創作とされている。
 アンドロメダはエチオピアの王女となっている。しかしアンドロメダなんていう名前はどうみてもアフリカの言葉ではない。古代エチオピア王国は実在しているが、アンドロメダ、カシオペヤ伝説はまったく伝わっていない。類似の話するもない。

 アンドロメダ姫は、本来はエチオピアの王女ではなく、フェニキアの海の女神の称号で「人間を支配するもの」という、すごい意味であるという説もある。アンドロメダ伝説をみると、海の怪物、洪水、海岸で生け贄...など海に非常に関係が深いことがわかる。
 メデューサは有名な土地の女神である。ギリシャ神話では知恵の女神メティスとなって取り入れられたという説がある。やはり知恵の女神のアテナとも関係が深くなんとペルセウス伝説は、アテナの楯にメデューサの頭がきざまれている理由づけで作られたという話まであるそうだ。脱線終わり。


 バビロン市の神マルドゥーク(エアの息子)、書記の神ナブ(マルドゥークの息子)などは、昔は弱い神々だったようで,12神のリスト外である。
 太古の神アプス&ティアマト夫妻と、その息子たちは、外見上怪物で、神話の悪役となっていてリスト外だが、どうもティアマトは別格である。クッドルーにもツノのある海ヘビとして描かれている(と思われる)。

 このティアマトが、世界の
ドラゴン)のおそらく最初のものだ。民族の原初のドラゴンは、ウロボロスなど海ヘビタイプが多い。星図のりゅう座はヘビみたいなドラゴンが書かれているが、あれで正解なのである。
 続いてアッシリアの有翼ライオンやグリフォン、スフィンクスのような,ライオンタイプのドラゴンが出てくる。
 中世以降の西洋ドラゴンは、海ヘビタイプとライオンタイプを足して2で割ったような感じだ。

 メソポタミアの神々は、石碑や印章などに刻まれるシンボルをいくつか与えられる。また同様にシンボルとなる動物も与えられ、ある神々にはシンボルとなる天体および「星座」が与えられた。

 例をあげると、イシュタルはシンボルマークが八芒星とシュロの葉、動物は獅子、天体は金星、星座はさそり座といった具合いだ。
 アダドは雄牛、マルドゥクはムシュフシュ、息子ナブもムシュフシュ、ニンギルスは山羊、ネルガルはライオン、エアは魚山羊である。シンボルマークは図のとおりで、どれもシュメール時代からペルシャあたりまで、2000年以上も変わらずに円筒印章などの図柄に登場する。

 時代とともに多数の神がどこからか誕生し増えていく。戦争とペストの神イルラ(エラ?)、誕生の女神ニンティ、宇宙の法則を表わす女神アシュラー(後カナーンの女神になる)火と光の神ギビル、地母神ババ、牧羊神タンムーズ(ドゥムジ)、農耕神エンキドゥ、山の女神ニンフルサグ、土星の神カイマーヌ(サグウシュ)、書記の女神ニダバ(ニサバ?)、緑葉の女神アブ,etc.
 メソポタミアの各都市ではそれぞれ異なる神を1つ、町の神と選び祭っている。ウル市はナンナ、ニップル市はエンリル、エリドゥ市はエア、ウルク市はイナンナ(イシュタル)、マリ市もイシュタル、ラルサ市はシャマシュなどである。

金星−−女神イシュタル


 メソポタミアで最も祭られた愛と戦いの女神イシュタルは、金星を表わす。金星が最大光度に近くなり,光条が見られるようになると「ひげのあるイシュタル」と呼び、吉兆であった。

 イシュタルは実に横のつながりの広い女神で、フェニキア、カナーン(レバノン,イスラエルあたり)では女神アスタルテ(イシュタルのカナーン読み)となり、アスタルテはギリシャに伝わり愛の女神アフロディテー、ローマでヴィーナスとなる。
 アフロディテーはギリシャにとどまらず、ヨーロッパ全土に影響を与えた女神であるが、イシュタルの影響範囲も入れるとインド・ヨーロッパ語圏をおおいつくす

 イシュタルはもともと戦いの女神という性格が強い。メソポタミアの印章などに刻まれるイシュタルは、背中に弓と矢を背負い、ライオンを踏みつけた雄々しい姿で登場し、どうも愛の女神という雰囲気ではない。アフロディテーも影響を受け、昔は愛と戦いの女神と呼ばれたらしい。同じくアスタルテも戦いの女神でもある。

 イシュタルが金星を表わすように、アフロディテやヴィーナスも金星を表わす。アスタルテはアラブやメソポタミアで明けの明星の意味であるらしい。
 アスタルテはその名前からわかるように、astr-「星」を意味し,ヨーロッパの星astr-はアスタルテから誕生したのかもしれない。。

 このアスタルテ(=イシュタル、アフロディテー)は、中世に入ると、なぜか男性になり、なんと、悪魔の公爵アスタロトAstarothとなってしまう!アスタロトは魔界では5指に入る実力者である。
 古い女神が、後の男性社会で男の神に変わってしまうことは時々あるらしい。インドのマリーチ(摩利支天)なども、もとは女神だったらしく、摩利支天を主と仰ぐ僧は昔は女装していたとか...。

ところで、明けの明星のことを、西洋ではルシファーLucifer(魔王サタンの大天使時代の名前)と呼ぶことがある。旧約聖書のイザヤ書に「黎明の子ルシフェル(明けの明星)よ、いかにして天から落ちたか」という下りがある。
 魔王サタンと金星の関係はいかに?これは実はカナーン神話起源らしいのである。

 ルシフェルは「光をもたらすもの」というラテン語だそうで、明けの明星を表わすカナーン人の神シャヘルの輝かしい称号であった。
 ルシフェル・シャヘルは、カナーン神話の元主神・エルとアシュラー女神の間の子供で、宵の明星シャレムと双子であった。ところが、なぜか明けの明星のシャヘルだけが、天から地におっこちてしまった。
 その話が聖書に取り入れられ、堕天使ルシフェル=魔王サタンが誕生したようだ。
 ただし、このシャヘルとシャレムの話は、ラスシャムラで発掘されたB.C.14世紀の粘土板集にのみ登場し、類話などが他のメソポタミア、地中海地区ではまったく発見されていない。
 ラスシャムラ文書は、イラン、メソポタミア、カナーン、エジプトの全地区の神々が並記されて登場しており、古代オリエント学会に大衝撃を与えた文書である。

 新旧の聖書には、メソポタミア〜フェニキアあたりの伝説の借用が多いというは、有名な話である。ノアの洪水はシュメールの伝説そのままの引用だし、海の怪物レビアタン(英語読みではリヴァイアサンReviathan)も、アッカドの紀元前2000年の粘土板にほぼそのままのレタンの名で登場する。

 アテネの哲学者プラトンは、明けの明星をアステルAsterという名で呼んでいる。前述のアラブの言葉からとったものだろう。
 また、イシュタルのヘブライ語よみエステルEstherが、星Starのもととなったという説もある。原恵「星座の神話」によれば、astr-は星を表わす語幹だということで、astronomyは星の学問ということだそうである。
 Ishtar->Esther, +Astarte->Aster->Astr ..天文学astronomyの元は、女神イシュタル?

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自分で調べてみよう!


  日本では野尻抱影先生がおそらくメソポタミア天文学の一般への紹介者である。
  野尻先生は、英語は、フランス語、ドイツ語の論文の原著から、総論を導いて日本語にして紹介されている。当時日本語の参考文献など、ほとんどなかったことだろう。

  「星と東西民族」「星座」には、ウルク出土の瓦に描かれた星座の絵や、ボガズキョイ出土の星表などの資料が紹介されている。どうやらこれは探すのがめんどうくさい資料らしく、あとで出た本などでも、野尻先生の本から引用している。
  野尻先生は、東西の各種言語、海外の古典、歴史学の海外の論文と、スーパーマン的に広大な分野に精通しておられた特殊な方なので、その続きの研究というのは、天文畑の人間にはなかなか難しい。しかしだれもやらないと、天文・プラネ界の星座・天文学の起源あたりに関する知識は1970年代でストップしたままになるので,どなたかがんばってやってほしいなあと思う。私は研究はできないが,歴史学方面の研究成果や主流の説などをまとめてプラネ界に紹介するくらいならできそうだと思い、これを書いてみた。

 古代メソポタミア文明の科学については、本によって書いてあることが少々違う。科学史の本でも、ちょっと古いと、メソポタミアについては何も書いてなかったりする。
 まだ、バビロニア信奉者の本も困ったもので、あらゆるものを古くする傾向にあり、黄道12宮が紀元前5千年にできたとか、うそ八百が書いてあったりする。

 正確かつ情報量豊富ということで、ノイゲバウアーの著書は古くても一番のおすすめ品である。ノイゲバウアーも極端な人で、原典の資料にずばりと記述されてないと、いっさい否定してしまうが、このくらい厳しい方が科学史という観点からはいいかもしれない。

 M・リュッタンの「バビロニアの科学」
(クセジュ文庫)もまとまって全部のっていて、これだけ読んでもかなりのことがわかる。
 京都産業大の矢島文夫先生の、一連の星座・占星術の起源に関する著書も、原典が紹介してあり正確で内容もたいへん面白い。

−−資料調査までやりたい方は..
 メソポタミアについては、他の分野のように、同一資料を何人もで調査するなんてことにはならない。未調査の山であるので、だれがやってもけっこう意味があるそうである。

 メソポタミア天文学の資料のあるところというと、ウルのいっさいがっさいをもっていった大英博物館が開架で多数公開しており、入館も無料だし、粘土板関係の学術出版物も多く、よさそうな場所である。ムル・アピン星表やクッドルーなど、重要資料も多数所蔵している。
 2,3週間通えれば、日本未発表の新しい発見にも出会えるかもしれない?ウルの粘土板は数万枚あるそうだが、ほとんどが経済関係の計算書という話。

 あと、メソポタミア関係はドイツが収集がさかんで、論文も多い。ベルリン国立博物館などは、ガイドブックをみても資料が充実とある。客星氏が調査してくださった野尻先生の参考文献もドイツ語論文ばかりである。ドイツはオセアニアやアジアの星の民話の収集に関する論文も、なぜか多い。ここに挑戦される方は、ドイツ語の壁は異様に厚いので、がんばってほしい。

 パリのルーブル美術館は、エジプト関係のすごさ(墓を1つまるごともってくるとか)に比べると、メソポタミアは量的にはいまひとつである。ただ、最重要資料、ハンムラビ法典の石碑や有名なイシュタル像などの名品の数々を所蔵しており、1つ博物館が作れるくらいのものではある。
 イラク国立博物館はやはり現地なので資料も多いみたいであるが、当分は近寄れなさそう。
 アメリカの各博物館や美術館は、シカゴ大学、ペンシルバニア大学など古代史や科学史に力を入れている大学以外は、地理的条件で量は少ない。

 日本のサンシャインシティにある古代オリエント博物館では、発掘調査も行なっており、オリジナルの資料がよく見つかる。特別展も見逃せない。研究と収録が優秀。なんといっても日本語で読める。国士館大学のイラク古代文化研究所も、資料が豊富みたいであるが、一般公開はしていない。

 楔形文字文書は、あちこちの博物館に分散している他、膨大な量がコレクターに流れているという。そういったバラバラの文書は、解読もされずしまいこまれているのだろう。
 粘土板は長年の塩害で文字の部分はボロボロである。(メソポタミア文明が衰退したのは、塩害で麦がとれなくなったからと言われる。)大英博物館などでは、焼いて乾かして、塩を浮かせてから洗い流して、さわっても壊れないようにしてから、解読作業に入るという。
 こういう保存方法をとらないバラバラの粘土板たちは、時間がたつと表面がくずれてしまうそうで、ノイゲバウアーは未解読のまま朽ちるであろう、大量のバラバラの粘土板について嘆いている。そういった粘土板をどこかで見かけたら、文字を書き取って調べてみると面白いかもしれない。

 楔形文字が読めないと、それについての説明文をさがさなければならず、めんどうくさい。読めるにこしたことはないと思うが、楔形文字の参考書は書店にあるものは少ない..というかほとんどない。

 また、楔形文字は表音文字であるので、同一の言語ではなく、大きくシュメール語アッカド語に分かれる。アッカド語も、細かくヒッタイト語、アッシリア語、バビロニア語などに分かれるが、どれも方言程度の差なのだそうである。しかしアッカド語も、時代と共に表記の仕方がかなり変わっていき、解読はむずかしそうだ。
 勉強してみようという方は、気をながーくもって、ぜひがんばってほしいと思う。

 膨大に金と暇が余っている方は、政治情勢が落ちついたら、イラクの砂漠の遺丘をいくつか発掘されてみてはいかがであろうか。何か出ることまちがいなしという話である。

参考文献

・「悪魔の辞典」国土社
・矢島佑利「アラビア科学の話」岩波新書
・石田恵子編「印章の世界」         古代オリエント博物館
・日本IBM「科学の歴史」
・L.ウーリー「
カルデア人のウル」             みすず書房
・岸本通夫他「世界の歴史2・古代オリエント」河出書房新社
・クレンゲル「古代オリエント商人の世界」         山川出版社
・「筑摩世界文学大系1・古代オリエント集」        筑摩書房
・古代オリエント博物館編     「古代オリエント論集」山川出版社
・小川英雄「ビジュアル版世界の歴史2        古代オリエント」講談社
・三笠宮崇仁編「古代オリエントの生活」         河出書房新社
・松本健「古代メソポタミア文明の謎」         光文社
・P.ホール「古代の密儀」人文書院
・O.ノイゲバウアー「古代の精密科学」          恒星社厚生閣
・ブラッカー他「古代の宇宙論」海鳴社
・クレンゲル「古代バビロニアの歴史」         山川出版社
・「ジプシーの魔術と占い」アウロラ業書
・H.ウーリッヒ「シュメール文明」佑学社
・野尻抱影「星座」恒星社厚生閣
・中山茂「西洋占星術」講談社
・W.ケントン「占星術」平凡社
・山内雅夫「占星術の世界」中公文庫
・矢野道雄「占星術師たちのインド」             中公新書
・矢島文夫「占星術の誕生」東京新聞出版局
・増田精一他「世界の大遺跡4」講談社
・NHK取材斑編「大英博物館1」           NHK出版
・コーネル「天文学と文明の起源」白揚社
・タンネマン「大自然科学史」
・金子史朗「ノアの大洪水」講談社現代新書
・J.G.マッキーン「バビロン」          法政大学出版会
・P.アイゼレ「バビロニア文明」佑学社
・M.リュッタン「バビロニアの科学」          クセジュ新書
・富村博「文明のあけぼの」講談社現代新書
・野尻抱影「星と東西民族」
・野尻抱影「星の文学誌」筑摩書房
・「JTBポケットガイド133、中近東」           日本交通公社
・「錬金術」中公新書
・M.エリアーデ「世界宗教史1」
・建部伸明と怪兵隊「幻想世界の住人達2」           新紀元社
・クーパー「世界シンボル辞典」三省堂
・西上ハルオ「マンダラ博仏館」鷺書房
・「古代オリエント・ギリシャ展図版」        1973,国立博物館他
・「古代シリア展図版」1977,東京新聞他
・E.A.Wallis Budge   "Amulets and Superstitons"Dover
・G.スキアパレリ「旧約の天文学」         教文館,昭和14年
・杉山二郎「オリエント考古美術史」        NHKブックス
・大林太良「海の神話」講談社学術文庫
・キエラ「粘土に書かれた歴史」岩波新書


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