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キトラ古墳は、明日香村の阿部山という ところにある、7世紀後半〜8世紀始めごろできたと考えられる直径10m くらいの古墳です。このキトラ古墳の天井画の星宿図 について、天文民俗学的に?解説してみたいと思います。 |
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日本にある古墳は、発掘可能な一般人のもの、宮内庁が管理していて発掘
できない皇室のご先祖と思われるものの2タイプがあります。
飛鳥にある多くの小さい古墳は発掘可能なもので、それらは石室 (遺体のある部屋)もあけられていて、 遺体のまとっている装飾具なども博物館に保存されて います。
発掘可能な古墳の中では、きれいな壁画がある飛鳥の古墳はたいへん珍しく、 飛鳥では知っている中では高松塚ともう1つぱっとしない?絵があるもの、それとキトラくらい?でしょうか。(九州には彩色古墳がたくさんあります)
発掘不可能なものは、もちろん石室はあけられておらず、壁画があるか どうかは不明です。
というわけで、飛鳥の身分の高い方の古墳では、石室内部の壁画は、 もしかすると珍しくないのかもしれませんが、 発掘ができないものが多いので、よくわからないわけです。
歴史にかかわる主要な古墳の調査が許可されないせいもあり、日本は紀元3-5世紀という 新しい年代の歴史がよくわかっておらず、まだ多数の説があるという、 先進国では珍しい、歴史がよくわからない国なのです。
★高松塚古墳の天井の星宿図
★ひたちなか市の虎塚古墳の壁画
↑frekishiのkikkawaさんから教えていただきました!
茨城県(長いこと奈良と書いてました。すみません)の古墳ですが、中は九州古墳そっくり....
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←満州の舞踏塚古墳の天井画。野尻抱影「星座」恒星社,p128の写真と 図から筆者が作図したもの。この古墳の壁には四神が描かれている。
本物はもう少し図柄が細かいデス(^^;)。壁面の絵は日本の古墳の方が ずっと上手....
この舞踏塚古墳は河出書房新社「図説韓国の歴史」p.30に外観の写真が あります。
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「(前略)....大正半ば頃、江西三墓里、遇賢里、梅山里その他、高句麗 古墳墓玄室の壁画の模写が、博物館で展観されたことがあって、 梅山里四神塚のものも、東西南北四方の壁に、蒼龍、白虎、朱雀、玄武が
現されていた。最も鮮明で流麗なのは蒼龍で、..(中略)....空に 北斗七星が白丸で大きく描いてあった。これは死者は北に面し、 四神に鎮護される慣習からだった。」(野尻抱影)
(野尻抱影「星と東西民族」p.38,1958,恒星社 より引用)
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結論からいいますと、高松塚とキトラの星宿図は、漢や後漢の墳墓 にならったもので、日本独自のアイディアではありません。星宿図のある 古墳では、朝鮮半島の高句麗古墳の方が有名ですが、
これも漢にならったものと思われます。
飛鳥時代の日本の最先端文化は、主に朝鮮(百済・新羅など)からの渡来人 からもたらされた中国(漢)の文化です。 渡来人は全国に分布しており、そのなごりは各地に残る朝鮮語の地名や
渡来人系神社など今も多く残っています。 旧法隆寺を建設したのも、聖徳太子の命をうけた 秦氏一派つまり渡来人系の技術者だという言い伝えもあります。
お墓もおおむね中国にならって作られており、古墳という 丘みたいな墓は大陸から伝わりました。(前方後円墳だけは日本オリジナル)
朝鮮半島は、お葬式の時に北斗七星の絵の書かれたひつぎが使われた くらい中国の道教の影響を受けたところです(道教では北斗は死をあやつる神)。 そして中国では古代からずっと
星座の図柄の服は王族だけにゆるされる王のシンボルでした。「日月星辰紋」は 皇帝の正装の柄として記述されています。
天上画に星宿図がある古墳は朝鮮半島および中国に複数あり、 特に高句麗後期の 6-7世紀の古墳・および後漢の古墳の天井画によくみられるとのことです。 その構成は、
四方の壁に四神、天井に星宿図と東西に日月と高松塚・キトラと同じです。
(薮内清「中国・朝鮮・日本・印度の星座」、他の情報より )
キトラが日本人のお墓だとしたら、「大陸の文化にあこがれて いたのだなあ」ということがよくわかる発見ですし、テレビで言われて いるように、渡来人のお墓だとしたら、本国と同じようにして
葬ってあるわけですね。
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★ バークレーのKoguryo(高句麗)古墳の壁画ページ(英語)
何でUCLAに高句麗古墳のページが? 高句麗古墳の壁画は、ユネスコ世界文化遺産にも登録されている 有名遺跡で、欧米の博物館でも展示されていたりするのですね。 解説文にあるペクチェは百済、シンラは新羅のことです。
★高句麗古墳の壁画(絵つき、でも星図はない、英語)
朝鮮半島の古墳の壁画も、中国にならっていたわけで、 中国にも星図が描かれた墳墓があるそうです。frekishiの kikkawaさんから教えていただいたのですが、歴博の図録「装飾古墳の世界
図録」(1993)に「天象」が描かれている洛陽付近の古墳として、 「西漢打鬼図壁画墓」「西漢卜千秋壁画墓」「新莽天象神話壁画墓」 「東漢天象壁画墓」「東漢壁画墓」(西漢が前漢、東漢が後漢)
の名があがっているそうです。
それらの1つかどうかわかりませんが、古本屋で「中華人民共和国漢唐 壁画展」の図録(1975年大塚巧芸社刊)にB.C.1世紀「洛陽前漢墓壁画」の 「日月星辰図」がのっていました。解説によると、壁画がみつかった
中国墳墓中最も古いものだそうです。
作者は死んで明らかに70年以上 たっており、平撮りした写真は撮影者に著作権は普通発生しない、 という判例から、残る共同著作権者の図録出版社の承諾があれば掲載ができる
と判断されますが、電話番号もないので、引用扱いで 以下に掲載させていただきます。

(中華人民共和国漢唐壁画展,まんなかへんのページより)
↑左の大丸が太陽、残りは星と雲の図、と説明がありますが、 非常に抽象画的表現でしてその、星座は判別できません。 なんとなく皇帝の象徴である日月星辰図を描いただけのような、
気がいたします。右側には続きがあり、月と思われる大丸と、 この図と同じような雲と星らしき図が続きます。
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←中国の28宿の説明図。キトラ古墳の天井画ではありません。
高松塚古墳の天上の28宿図で、中国の星座について関心が高まり ました。中国の星座は、星が1〜10個程でできており数は300くらい あります。最初に星座の記録がでてくるのは、史記天官書ですが、
28宿という星座はB.C.433年の焼き物に描かれ、本当はもっと前から 使われていたのでは?とも言われています(ただし証拠なし)。
28宿というのは、太陽の通り道である黄道を28に分割して星座 にしたものです。その28の星座が東西南北7つづつにさらに別れます。 西洋占星術の黄道12宮みたいなものです。
しかし、実は星宿というのは、「太陽の通り道」ではなくて、 「月の通り道(白道)」を28分しているのです。白道は黄道に対して5度しか かたむいていないので、だいたい同じにみえるのです。めんどうなので
だいたい白道=黄道と思ってくださいね。
なぜ月の通り道を28に分けたのか、というのは、昔は月の満ち欠けで1ヶ月を測っており、月の動きをあらわす指標が必要だったためです。
月は29.5日で満ち欠けし、27.3日で天球(白道上) を一周します。月が天球を一周するのを暦の学者が観測するため、 毎日月がとまる宿という考えで白道を28分割した星宿ができたと
想像されます。
月が天球を一周するのは27.3日で、はんぱですね。黄道(ホントは白道)27宿 でもよかったわけですが、割り切れる数字を愛した 中国人は28を選んだようです。
古代のインド人は実際の周期に近い黄道27宿を採用していました。
中国とインドの28宿は一致せず、特に中国のは赤道よりの星が 使われている部分があります。
★中国28宿を星空にたどる
★中国とインドの28星宿の距星表
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新聞などにのっている図をみた限りでは、中国の蘇州の孔子廟の
「淳祐天文図」という13世紀にきざまれた星図とほぼ同じような 感じにみえたのですが、実際にビデオをみて鑑定をされた大阪市 科学館の嘉数さんのお話などから、実は不正確で、星座とわかる
部分もあるけれど、まちがいの多い星図だったそうです。
「淳祐天文図」はたいへん正確な星図で、とても比べられるものでは ないようです。
しかし、その時代の高句麗や漢の古墳の星図は、 なんとなく星座らしいものがえがかれている程度で、実際の星空とは 全然別のものみたいな描きかたです。そういった模様みたいな星図
と比較すると、描いた人の意識が異なっており、 世界的に貴重な星図であることはかわりないでしょう。
B.C.6世紀〜7世紀頃まで、朝鮮半島の高句麗の古墳内の天井画として 描かれた星図は、手元にある写真が満州舞踏塚のもの1つしかないので 詳しくはわからないですが、同心円が3つ描かれており、同定できる星は
30個くらいで、非常にアバウトな書き方です。
天井の星図のほかは、四方の壁に四神の絵またはその四神に対応する星座 (28宿中の7宿)が描かれているそうで、高松塚、キトラ と同じデザインです。
(中村清兄「高句麗時代の古墳について−その星像壁画を中心として」 1937、考古学論叢より)
キトラ古墳の天井の星図も、話できく限りでは同心円がいくつもあり 黄道も(位置がちがってるそうですが(^^;))あるそうなので、 上にある私の書いた28宿説明図の、北極星中心の青いラインの円の
ようなものではないかと思います。
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天武天皇(在位672-686)は、645の大化の改新を行った 天智天皇の弟です。飛鳥時代最大の戦乱と いわれる672壬申の乱で、天智の子弘文天皇を倒して、皇位につきました。
舒明天皇と皇極天皇(再度天皇になり、斉明天皇)の子。よく兄と比較され、物語でひきたて役になっていますが、 明るく人望があったのは天武の方であったと言われます。政治体制を
確立させた名君で、兄と争った経験からか、母の違う子どもたちに、「 皆うののさらら(持統天皇)の子と思って、兄弟仲良くしなさい」と遺言を残しました。
古代史では、日本神話を日本書紀に統一して、地方の神話を捨てさせた 人物として有名です。おかげで中央集権体制は強くなったわけですが、 古代史はますますわからなくなりました。
天文民俗学の世界では、日本書紀・天武紀に記されているように、 大陸の陰陽五行・道教の導入者にして、 日本陰陽道のパイオニアとなります。天武は道教(日本では陰陽道に含まれる)の
神話、しきたりなどを皇室行事などにつぎつぎとりいれていっており、 道教色の強い改革は、天武の時代に行われていることが多いのです。
壬申の乱(六十干支で壬申の年に行われたため)で伊賀国を通るとき、 天皇自ら式占で戦いの勝利を 占ったといいます。この時使われた式盤は復刻されたものが伝わって
おりますが、陰陽道式方位盤で、中央には北斗七星が描かれています。
先日新聞のトップ記事に、「天皇という名称を使い始めたのは天武 時代であることがわかった」という記事がのってましたが、研究者の 間では既に知られている話だったような..。
天皇はそれまで大王(おおきみ)とよばれて いましたが、道教大好きの天武は、道教で皇帝を示す北極星 (天皇大帝という星座のことか)になぞらえ、天皇としたわけです。
朝廷の天体観測、暦作りの部門、陰陽寮も天武時代に初めて記述に 登場します。 また日本書紀に道教的アレンジをほどこし、天御中主という最高神を 突然つけくわえたのも、天武ではないかという意見もあります。
602年、百済の僧観勒が来日したとき、天文・暦本・遁甲(陰陽五行の 占い)本を持ってきたとあり、その当時(聖徳太子の時代)には唐の元嘉暦が、 すでに使われていました。天武は、輸入されたばかりのこういった大陸文化の
中で育ち、成人後は自分用の百済人の天文・遁甲博士をそばにおいていました。
えらい前おきが長くなりましたが、キトラは 天武・持統陵のそばに、それも次章でのべる特殊な位置にあります。 天武ゆかりの人物の墓である可能性はかなり高いと思われます。
もし離れた場所にあっても、星宿図がある内装から、陰陽五行趣味の 天武関係ではないかと連想してしまいますね。
(村山修一「日本陰陽道史話」大阪書籍、福永光司「道教と古代日本」人文書院他より)
★天智天皇について
天智天皇は天武天皇と対照的に、道教、陰陽五行などの話には、 まったくといっていいくらい登場しません。 663年百済に援軍を送りましたが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れ
ました。 天文民俗的には?漏刻という水時計を導入したので知られます。 それが記録によると6月10日で、その日が時の記念日になっています。
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←左が藤原京周辺、右は手本となった後漢の都・洛陽周辺。縮尺は 一致しておりません。
694年持統時代に浄御原宮から遷都され都となった藤原京は、昨年の発掘で、 平城京をしのぐ規模であったことがほぼ 確実となりました。平城京と同じ南北に碁盤目状の道路がひかれており、
美しい都だったことでしょう。
藤原京は天武がいくつかの候補地から選んだもので、後漢の都・洛陽 を手本にして作られたとされています。
洛陽は北に山がつらなり、南に河が流れる、中国の占の風水上で よい立地です。洛陽の東西の中心線を南に延長した線上には「霊台」 という建物がみえます。日本にある徳川家霊台というのが、
たしかお墓でしたから、これもお墓でしょう。
藤原京はというと、都のふちを南北に走る道路が、南に長く延長された 構造になっています。その2本の延長道路にはさまれた、藤原京のまん中の 中心線の延長上に、天武・持統陵(名前は野口王墓)と高松塚、キトラ古墳が
並んでいるのです。洛陽とほぼ同じお墓の配置です。
この天武陵といわれる野口王墓には、星宿図などの壁画は残っていません。 また、皇族の墓なのに石室内部までしっかり入れます。なぜでしょう?それは、 江戸時代以前に、盗掘されて口がぽっかりあいていたからです。
内部はもし壁画があったにしても今は風化で跡形もありません。
天武陵と同等に近い配置がされている高松塚、キトラともに、 王族の陵であろうとはっきり言う研究者もいます。ただ、天武陵は 南北45mもあって規模が大きい古墳です。それに対し、
キトラは直径10mに満たず、よほどくわしい古代史本でも なければ古墳地図で省略されてしまうような小型古墳です。
この南北ライン上の他の古墳も、もし未盗掘であるなら、 豪華な壁画のある石室をもつ可能性があるような気がいたします。
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発掘された飛鳥の古墳の中では、例外的な豪華内装。藤原京の中心線、
天武・持統陵と直線で結ばれた配置。
これらのことから、古代史研究家の意見はだいたい一致しているようです。 王族、あるいは天武とかかわりの深い渡来人でしょう、ということです。森浩一先生の古墳本
には、キトラの発掘前に出たものですが「王族だろう」という見解がのっています。
当分わからなそうなので、古代史の研究家の皆様の見解をゆっくり待ちましょう。
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300個くらいある中国の星座の中でも28宿が最も古く、前述した B.C.433の陶器の28宿図の他に、「呂氏春秋」「礼記」「准南子」「史記」 「漢書」「後漢書」といった紀元前の文献に、28宿全部が記述されています。
中で最も古いのは「呂史春秋」だそうで、B.C.200頃できたようです。
また、28宿のようにまとまってではなくちょっとだけ星座がでる本では、 B.C.900?くらいの周の時代に 書かれたことになっている「易経」に斗(北斗のこと)が登場しており、
B.C.8-5世紀ごろの詩集「詩経」に、火、箕、参、など8星座と 織女と牽牛がでてきております。
ただし、丸い星図が描けるほどの多くの星座が体系的に記述 されているのは、B.C.91年の「史記天官書」までありません。 天官書には、紫宮(後の紫微垣)、天極星、北斗、文昌、三能、
大角、南門、諸侯、五帝、将位、五車、北落、杵臼、あ南斗、建星、 河鼓、牽牛、織女といった今でも知られる中国星座のほか、 もちろん28宿もあり、90ほどの星座が東官、西官、南官、北官、
中官の五官に分類されて記録されています。
いずれにせよ、中国星座の体系ができたのは紀元前のことになります。 ただし、星図(絵になってるもの)は、古墳の天井のアバウトな図を のぞくと、孔子廟の1247年作の淳祐天文図まで
まったく残っておりません。
また、朝鮮半島の星座ですが、基本的に中国のものをそのまま 使っていたと想像されます。薮内清氏の文章によれば、前述の高句麗の 古墳の壁画の星図の他に、 「考昭王元年(692年)、唐へ留学していた僧の道昭が、新羅に天文図を
もたらした」という記録があるそうです。
朝鮮半島も古墳の天井をぬかすと、16世紀まで星図は残っていません。
28宿というものの起源ですが、中国起源説、インド起源説、古代 バビロニア起源説があるそうです。どれも利点と欠点があるようです。
(私個人の意見ですが、バビロニアには星宿の概念がありませんので、バビロニア起源の可能性は 低いと思います。詳しくは古代オリエントの星 を読んでみて下さいね。
(大崎正次「中国の星座の歴史」雄山閣、野尻抱影「星座」恒星社ほか)
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古墳付近の住民は、キトラ古墳の土の山あたりを「キトラ」と
古くから呼んでいたそうです。
理科教育メーリングリストやfrekishiに参加されている方などからの 情報により、キトラは地名「北浦」がなまってつけられた呼び名ではないか、 という説があることをうかがいました。
またサンシャインプラネタリウムの藤井氏ほかの皆様から、盗掘した 泥棒?のうわさ話で中に亀と虎がみえるという言い伝えから キトラと呼ばれるようになったのではないか、
という説のお話をうかがいました。
どちらが正しいのかはよくわかりません。
情報ありがとうございました。何か別の情報がありましたら、また よろしく御願いいたします。
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キトラの天井の星図には,天の北極を中心として同心円が
数個描かれている。最も大きい円は、みえるぎりぎりの範囲という 意味だとすると、その円が南緯何度あたりかがわかれば、 地上のどのあたりの緯度用だったかをすぐに計算できる。
大阪市教育大の宮島先生の計算によればこの星図は北緯38〜39度 あたりで見られる星空であると発表されている。中国より南で日本より 北、朝鮮半島あたりがちょうどあう。キトラの四神、天井に同心円が
描かれた星図という壁画の様式は高句麗古墳と同じことが指摘されているが、 本当に高句麗の星空なのだろうか?
高句麗古墳の星図はいずれもアバウトで,星宿は描いていないし、 北斗周辺の星も実際とは異なるいいかげんな配列である。キトラの 精密な描写とはぜんぜん似てない。もし高句麗の人が作成したとしても、
高句麗古墳の元図とは全然違う、よい星図を使っている。その星図が 何者なのかわからないが、中国にもこの時代の精密な星図は 残っていない.ただ28宿をはじめとする中国星座は,この時代はほぼ
完成しているので中国ならば作ろうと思えば星図は作れたはずである.
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←大阪市科学館の 嘉数さんが1998年3月に撮影されたキトラ古墳です.9月の写真もあります。他に写真等の情報は
古代の学舎が詳しいです.
●各新聞のスクラップ記事全部
..というのが、最新資料のようです。インターネット上でも新聞記事が よめるものもあります。特に、読売新聞3/20掲載の宮島先生の評論が まとめとしてよくわかると思います。共同研究者である
大阪市科学館の嘉数さんの見解でもあるとのことです。
●土居淑子「古代中国考古・文化論叢」言叢社
秦から、漢、唐代までの墳墓の壁画についての論文集。図版も 多く入っているのですが、天象の記述が少なく星辰については画像が ありません。墳墓壁画中では星辰は、研究者にはあまり注目されてないようです.
発掘を実際に行った研究者の著書なので、おそらく日本で最も中国墳墓 の壁画について詳しい本ではないかと思います。
●中村清兄「高句麗時代の古墳-その星像壁画を中心として」考古学論叢1937
天井に星座、壁に四神が描かれている高句麗の古墳について書かれている らしい。今となってはよめなさそう。
●薮内清「中国・朝鮮・日本・印度の星座」(「星座」恒星社)
上記の論文が紹介されている他、満州の墳墓2つの天井画がのっている。 写真がみにくいが、星数はキトラの方がずっと多いようだ。
●大崎正次「中国の星座の歴史」雄山閣
古天文、天文民俗愛好家座右の書の1つでしょう。中国星座の誕生は この本に従いました。
●村山修一「日本陰陽道史話」朝日カルチャーブックス/大阪書籍
天武天皇についての記述、飛鳥・奈良時代の陰陽道についてなどが 詳しくのっております。
●野尻抱影「星と東西民族」恒星社厚生閣
展覧会で、天井に北斗、壁に四神が描かれた高句麗墳墓の壁画の 模写をご覧になった話や、他のアジア古天文グッズをもらった話などがでてます。
●有坂隆道「古代史を解く鍵」講談社学術文庫
小川,薮内先生らの古代の暦に関する論文の紹介が詳しくあり、 また北魏、トルファン,呉越の墳墓に描かれた天井星図のかなり 詳しいイラストがあるのでとても役立つ.
●ニュースステーションのキトラ古墳レポーターの方
「私は天井に星が描かれている古墳を朝鮮半島でいくつも見ました」 と述べておられました。この方に聞けば、朝鮮半島の古墳の天井画のことが わかるかもしれません。生で見た方を私は他に知りません。
●このページにある図
私が描いたものは、どうぞ転載利用等自由ですので、ご利用ください。 ただしいずれも精密な図ではなく、おおざっぱな図です。
写真は私のものではないので、著作権者にお問い合わせください。
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